四一僧都死去

原文

  1. `僧都
  2. `これにて何事をも云はばやとは思へどもいざ我家へ
  3. `と宣へば有王
  4. `あの御有様にても家を持ち給へる不思議さよ
  5. `と思ひ僧都を肩に引き懸け参らせ教へに従ひて行くほどに松の一叢ある中に芦を結ひ桁梁に渡し上にも下にも松の枯れ枝枯れ芦の枯れ葉をひしと取り懸けたれば雨風堪るべうも見えず
  6. `昔法勝寺の寺務職にて八十余箇所の庄務を司り給ひしかば棟門平門の内に四五百人の所従眷属に囲繞せられておはせし人の目の当たりかかる憂き目に合はせ給ふ事の不思議さよ
  1. `業に様々あり
  2. `順現順生順後業と云へり
  3. `僧都一期が間身に用ふるところ皆大伽藍の寺物仏物ならずといふ事なし
  4. `さればかの信施無慙の罪によつて今生にてははや感ぜられけりとぞ見えたりける
  1. `僧都
  2. `こは現にてありけり
  3. `と思ひ定めて
  4. `去年少将や判官入道の迎ひの時もこれらが文といふ事もなし
  5. `今また汝が便りにも音信のなきはかうとも知らせざりつるか
  6. `と宣へば有王涙に咽び俯して暫しは御返事にも及ばずややありて起き上がり涙を押さへて申しけるは
  7. `君の西八条へ出ださせ給ひし後官人参つて資材雑具を追捕し御内の人共搦め捕り御謀反の次第を尋ね問ひ皆失せ果て候ひき
  8. `北方は幼き人を隠しかね参らさせ給ひて鞍馬の奥に忍うで御渡り候ひしにもこの童ばかりこそ時々参りて御宮仕へ仕り候ふなり
  9. `いづれか御嘆きのおろかなる事は候はざりしかども幼き人はあまりに恋ひ参らさせ給ひて参り候ふ度毎には
  10. `いかに有王よ我鬼界島とかやへ具して参れ
  11. `と宣ひてむつからせ給ひしが過ぎ候ひし如月に疱瘡と申す事に失せさせおはしまし候ひぬ
  12. `北方はその御嘆きと申しまたこれの御事と申し一方ならぬ御思ひに思し召し沈ませ給ひしが去る三月二日つひにはかなくならせ給ひて候ひぬ
  13. `今は姫御前ばかりこそ奈良の姨御前の御許に忍うでおはしけるがそれより御文給ひて参つて候ふ
  14. `とて取り出で奉る
  1. `僧都これを開けて見給へば有王が申すに違はず書かれたり
  2. `などや三人流されてまします人の二人は召し返されて候ふに今一人残されて今まで御上り候はぬぞ
  3. `あはれ高きも卑しきも女の身ほど云ふかひなき事は候はず
  4. `男の身にても候はば渡らせ給ふ島へもなどか尋ね参らで候ふべき
  5. `この童を御伴にて急ぎ上らせ給へ
  6. `とぞ書かれたる
  1. `これ見よ有王よ
  2. `この子が文の書きやうのはかなさよ
  3. `己を伴にて急ぎ上れと書いたる事の恨めしさよ
  4. `俊寛が心に任せたる憂き身ならばいかでかこの島にて三年の春秋をば送るべき
  5. `今年は十二になると覚ゆるがこれほどにはかなうてはいかでか人にも見え宮仕へをもして助くべきか
  6. `とて泣かれけるにぞ
  7. `人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ふ
  8. `とは今こそ思ひ知られけれ
  1. `この島へ流されて後は暦もなければ月日の経つをも知らずただ自づから花の散り葉の落つるを見ては三年の春秋を知り蝉の声麦秋を送れば夏と思ひ雪の積るを冬と知る
  2. `白月黒月の変はりゆくを見ては三十日を弁へ指を折りて数ふれば今年は六つになると覚ゆる幼き者もはや先立ちけるごさんなれ
  3. `西八条へ出だし時この子が
  4. `我も行かん
  5. `と慕ひしを
  6. `やがて帰らうずるぞ
  7. `と慰め置きしが只今のやうに覚ゆるぞや
  8. `それを限りと思はましかばいま暫くもなどか見ざらん
  9. `などそれらがさやうに先立ちけるをも今まで夢幻にも知らざりけるぞ
  10. `親となり子となり夫婦の縁を結ぶも皆この世一つに限らぬ契りぞかし
  11. `人目も知らずいかにもして命を生かうと思ひしもこれらを今一度見ばやと思ふ為なり
  12. `今は生きても何にかはせん
  13. `姫が事ばかりこそ心苦しけれどもそれは生き身なれば嘆きながらも過ぐさんずらん
  14. `さのみ長らへて己に憂き目を見せんも我が身ながらつれなかるべし
  15. `とて自らの食事を止め偏に弥陀の名号を唱へて臨終正念をぞ祈られける
  1. `有王渡つて二十三日と申すに僧都つひに終り給ひぬ
  2. `歳三十七とぞ聞えし
  3. `有王空しき姿に取り付き奉り天に仰ぎ地に伏し心の行くほど泣き飽きて
  4. `やがて後世の御供仕るべう候へどもこの世には姫御前ばかりこそ渡らせ給ひ候へ
  5. `後世弔ひ参らすべき人も候はず
  6. `暫し長らへて御菩提を弔ひ参らすべし
  7. `とて臥所を改め庵を切り懸け松の枯れ枝芦の枯れ葉ひしと取り懸けて藻塩の煙となし奉り荼毘事終ひぬれば白骨を拾ひ首に懸けまた商人船の便りにて九国の地にぞ着きにける
  1. `それより僧都の御娘の忍うでおはしける御許に参りてありしやうを初めより細々と語り申す
  2. `中々文を御覧じてこそいとど御思ひは増さらせ給ひて候ひしか
  3. `件の島には硯も紙もなければ御返事にも及ばず
  4. `思し召されつる御事共はさながら空しうて止み候ひぬ
  5. `今は生々世々を送り他生昿劫をば隔て給ふともいかでか御声をも聞き御姿をも見参らさせ給ふべき
  6. `ただいかにもして御菩提を弔ひ参らせ給へ
  7. `と申しければ姫御前聞きも敢へ給はず臥し転びてぞ泣かれける
  1. `やがて十二の歳尼になり奈良の法華寺に行ひ澄まして父母の後世を弔ひ給ふぞ哀れなる
  2. `有王は俊寛僧都の遺骨を首に懸け高野へ上り奥院に納めつつ蓮華谷にて法師になり諸国七道修行して主の後世をぞ弔ひける
  3. `かやうに人の思ひ嘆きの積りぬる平家の末こそ恐ろしけれ