三四足摺

原文

  1. `御使は丹左衛門尉基康といふ者なり
  2. `急ぎ舟より上がり
  3. `これに都より流され給ひたりし丹波少将成経平判官入道殿やおはす
  4. `と声々にぞ尋ねける
  5. `二人の人々は例の熊野詣して無かりけり
  6. `俊寛一人ありけるがこれを聞きて
  7. `あまりに思へば夢やらん
  8. `また天魔波旬の我が心を誑かさんとて云ふやらん
  9. `現とも覚えぬものかな
  10. `とて周章てふためき走るともなく倒るるともなく急ぎ御使の前に走り向かひて
  11. `これこそ京より流されたる俊寛よ
  12. `と名乗り給へば雑色が首に懸けさせたる布袋より入道相国の許文取り出でて奉る
  13. `これを開けて見給ふに
  14. `重科は遠流に免ず
  15. `早く帰洛の思ひをなすべし
  16. `今度中宮御産の御祈によつて非常の赦行はる
  17. `然る間鬼界島の流人少将成経康頼法師赦免
  18. `とばかり書かれて俊寛といふ文字はなし
  19. `礼紙にぞあるらんとて礼紙を見るにも見えず
  20. `奥へ読みけれども二人とばかり書かれて三人とは書かれず
  1. `さるほどに少将や康頼法師も出で来たり
  2. `少将の取つて見るにも康頼法師が読みけるにも二人とばかり書かれて三人とは書かれざりけり
  3. `夢にこそかかる事はあれ夢か
  4. `と思ひなさんとすれば現なり
  5. `現かと思へばまた夢の如し
  6. `その上二人の人々の許へは都より言伝たる文共幾らもありけれども俊寛僧都の許へは事問ふ文一つもなし
  7. `されば我が縁の者共は皆都の内に跡を留めずなりにけるよ
  8. `と思ひ遣るにも覚束なし
  1. `抑も我等三人は同じ罪配所も同じ所なり
  2. `いかなれば赦免の時二人は召し返されて一人此処に残るべき
  3. `平家の思ひ忘れかや執筆の誤りか
  4. `こはいかにしつる事共ぞや
  5. `と天に仰ぎ地に伏して泣き悲しめどもかひぞなき
  1. `僧都少将の袂にすがり
  2. `俊寛がかやうになるといふも御辺の父故大納言殿の由なき謀反の故なり
  3. `されば余所の事と思ひ給ふべからず
  4. `許されなければ都までこそ叶はずともせめてはこの舟に乗せて九国の地まで着けて給べ
  5. `各これにおはしつるほどこそ春は燕秋はたのもの雁のおとづるやうに自づから故郷の事をも伝へ聞きつれ
  6. `今より後は何としてかは聞くべき
  7. `とて悶え焦がれ給ひけり
  1. `少将
  2. `まことにさこそは思し召され候ふらめ
  3. `我等が召し返さるる嬉しさもさる事にては候へども御有様を見置奉るに更に行くべき空も覚え候はず
  4. `この舟にうち乗せ奉りて上りたうは候へども都の御使いかにも叶ふまじき由を頻りに申す
  5. `その上許されもなきに三人ながら島の内を出でたりなど聞え候はば中々悪しう候ひなんず
  6. `成経まづ罷り上りて人々にもよくよく申し合はせ入道相国の気色をも窺ひて迎ひに人を奉らん
  7. `そのほどは日比おはしつるやうに思ひなして待ち給へ
  8. `命はいかにも大切の事なればたとひこの瀬にこそ漏れさせ給ふともつひにはなどか赦免なくて候ふべき
  9. `とやうやうに慰め宣へども僧都堪へ忍ぶべうも見え給はず
  1. `さるほどに舟出ださんとしければ僧都舟に乗りては下りつ下りては乗りつあらまし事をぞし給ひける
  2. `少将の形見には夜の衾康頼入道が形見には一部の法華経をぞ留めける
  3. `既に纜解いて舟押し出だせば僧都綱に取り付き腰になり脇になり長の立つまでは引かれて出づ
  4. `長も及ばずなりければ僧都舟に取り付き
  5. `さて各俊寛をばつひに捨て果て給ふか
  6. `日比の情も今は何ならず許されなければ都までこそ叶はずともせめてこの舟に乗せて九国の地まで
  7. `と口説かれけれども都の御使
  8. `いかにも叶ひ候ふまじ
  9. `とて取り付き給へる手を引き除けて舟をばつひに漕ぎ出だす
  1. `僧都せん方なきに渚に上がり倒れ臥し幼き者の乳母や母などを慕ふやうに足摺りをして
  2. `これ乗せて行け具して行け
  3. `と喚き叫べども漕ぎ行く舟の習ひにて跡は白波ばかりなり
  4. `未だ遠からぬ舟なれども涙に眩れて見えざりければ僧都高き所に登り上がり沖の方をぞ招きける
  5. `かの松浦小夜姫が唐土舟を慕ひつつ領巾振りけんもこれには過ぎじとぞ見えし
  1. `さるほどに舟も漕ぎ隠れ日も暮れども僧都賤しの臥所へも帰らず波に足うち洗はせその夜は其処にてぞ明かしける
  2. `さりとも少将は情深き人なればよきやうに申す事もや
  3. `と頼みをかけてその瀬に身をも投げざりし心の内こそはかなけれ
  4. `昔壮里が海巌山へ放たれけん悲しみも今こそ思ひ知られけれ