一四一四願立

原文

  1. `神輿をば客人宮へ入れ奉る
  2. `客人と申すは白山妙理権現にておはします
  3. `申せば父子の御中なり
  4. `まづ沙汰の成否は知らず生前の御悦びただこの事にあり
  5. `浦島が子の七世の孫に逢へりしにも過ぎ胎内の者の霊山の父を見しにも超えたり
  6. `三千の衆徒踵を接ぎ七社の神人袖を列ね時々刻々の法施祈念言語道断の事共にてぞ候ひける
  1. `さるほどに山門の大衆国司加賀守師高を流罪に処せられ目代近藤判官師経を禁獄せらるべき由奏聞すといへども御裁許なかりければ然るべき公卿殿上人は
  2. `あはれ疾くして御裁許あるべきものを
  3. `昔より山門の訴訟は他に異なり大蔵卿為房太宰権帥季仲卿はさしも朝家の重臣たりしかども山門の訴訟によつて流罪せられ給ひにき
  4. `況や師高などは事の数にやはあるべきに子細にや及ぶべき
  5. `と申し合はれけれども
  6. `大臣は禄を重んじて諫めず小臣は罪に恐れて申さずと云ふ事なれば各口を閉ぢ給へり
  1. `賀茂川の水双六の采山法師これぞ我が心に叶はぬもの
  2. `と白河院も仰せなりけるとかや
  3. `鳥羽院の御時も越前の平泉寺を山門へ寄せられける事は当山を御帰依浅からざるによつてなり
  4. `非を以て理とす
  5. `と宣下せられてこそ院宣をば下されけれ
  6. `江帥匡房卿の申されしやうは
  7. `神輿を陣頭へ振り奉りて訴へ申さんには君はいかが御計らひ候ふべき
  8. `と申されければ
  9. `げにも山門の訴訟は黙し難し
  10. `とぞ仰せける
  1. `去にし嘉保二年三月二日美濃守源義綱朝臣当国新立の庄を倒す間山の久住者円応を殺害す
  2. `これによつて日吉の社司延暦寺の寺官都合三十余人申文を捧げて陣頭へ参じたるを後二条関白殿大和源氏中務権少輔頼春に仰せてこれを防がせらるるに頼春が郎等矢を放つ
  3. `矢庭に射殺さるる者八人疵を蒙る者十余人社司四方へ皆退散す
  4. `これによつて山門の上綱等子細を奏聞の為に下洛すと聞えしかば武士検非違使西坂本に行き向かひて皆追つ返す
  1. `山門には御裁断遅々の間七社の神輿を根本中堂に振り上げ奉りその御前にて真読の大般若を七日読みて後二条関白殿を呪咀し奉る
  2. `結願の導師には仲胤法印その時は未だ仲胤供奉と申ししが高座に上り鐘打ち鳴らし啓白の詞に曰く
  3. `我等が菜種の二葉よりおおほし立て給ひし神達後二条関白殿に鏑矢一つ放ち当て給へ
  4. `大八王子権現
  5. `と高らかにこそ祈誓したりけれ
  6. `その夜やがて不思議の事ありけり
  7. `八王子の御殿より鏑矢の声出でて王城を指して鳴りて行くとぞ人の夢には見えたりける
  1. `その朝関白殿の御所の御格子を上げけるに只今山より取りて来たるやうに露に濡れたる樒一枝立ちたりけるこそ不思議なれ
  2. `やがてその夜より後二条関白殿山王の御咎めとて重き御病を受けさせ給ひてうち臥させ給ひしかば母上大殿の北政所大きに御嘆きあつて御様をやつし賤しき下臈の真似をして日吉社に参らせ給ひて七日七夜が間祈り申させおはします
  3. `まづ顕れての御立願には芝田楽百番百番の一つの物競馬流鏑馬相撲各百番百座の仁王講百座の薬師講一𢷡手半の薬師百体等身の薬師一体並びに釈迦阿弥陀像各造立供養せられけり
  1. `また御心中に三つの御立願あり
  2. `御心の内の事なれば人いかで知り奉るべきにそれになによりもまた不思議なりける事は七日に満ずる夜八王子の御社に幾らもありける参人共の中に陸奥国より遥々と上りたりける童神子夜半ばかりに俄に絶え入りにけり
  3. `遥かに掻き出だして祈りければほどなくいき出でてやがて立て舞ひ奏づ
  4. `人奇特の思ひをなしてこれを見る
  5. `半時ばかり舞ひて後山王降りさせ給ひて様々の御託宣こそ恐ろしけれ
  6. `衆生等確かに承れ
  7. `大殿の北政所今日七日我が御前に籠らせ給ひたり
  8. `御立願三つあり
  9. `まづ一つには
  10. `今度殿下の寿命を助けさせおはしませ
  11. `さも候はば大宮の下殿に候ふ諸々のかたは人に交はつて一千日が間朝夕宮仕へ申さん
  12. `となり
  13. `大殿の北政所にて世を世とも思し召さで過ぐさせ給ふ御心に子を思ふ道に迷ひぬればいぶせき事をも忘られてあさましげなるかたは人に交はりて一千日が間朝夕宮仕へ申さんと仰せらるるこそまことに哀れに思し召せ
  14. `二つには
  15. `大宮の波止端殿より八王子の御社まで回廊造り参らせん
  16. `となり
  17. `三千人の大衆雨にも晴れにも社参の時労しう覚ゆるに回廊作られたらんはいかにめでたからん
  18. `三つには
  19. `今度の殿下の寿命を助けさせおはしませ
  20. `さも候はば八王子の御社にて法華問答講毎日退転なく行はすべし
  21. `となり
  22. `この立願共はいづれもおろかならねどもせめては上の二つはさなくともありなん
  23. `法華問答講こそ一定あらまほしう思し召せ
  24. `但し今度の訴訟は無下に安かりぬべき事にてありつるを御裁許なくして神人宮仕射殺され衆徒多く疵を受けて泣く泣く参りて訴へ申すが心憂ければいかならん世に忘るべしとも思し召さず
  25. `その上彼等に当たるところの矢は即ち和光垂迹の御膚に立ちたるなり
  26. `真言虚言はこれを見よ
  27. `とて肩脱いだるを見れば左の脇の下大いなる土器の口ばかり穿げ退いてぞ見えたりける
  28. `これがあまりに心憂ければいかに申すとも始終の事は叶ふまじ
  29. `法華問答講一定あるべくは三年が命を延べて奉らん
  30. `それを不足に思し召さば力及ばず
  31. `とて山王上がらせ給ひけり
  1. `母上この御立願の御事人にも語らせ給はねば誰洩らしぬらんと少しも疑ふ方もましまさず
  2. `御心の内の事共をありのままに御託宣ありければいよいよ心肝に添うて殊に尊く思し召され
  3. `たとひ一日片時にて候ふとも有難うこそ候ふべきに況して三年が命を延べて給はらんと仰せらるるこそまことに有難う候へ
  4. `とて御涙を押さへて御下向ありけり
  5. `その後紀伊国に殿下の領田中庄といふ所を永代八王子へ寄進せらる
  6. `されば今の世に至るまで八王子の御社にて法華問答講毎日退転なしとぞ承る
  1. `かかりしほどに後二条関白殿御病軽ませ給ひて元の如くにならせ給ふ
  2. `上下喜び合はれしほどに三年の過ぐるは夢なれや永長二年になりにけり
  1. `六月二十一日また後二条関白殿御髪の際に悪しき御瘡出ださせ給ひてうち臥させ給ひしが同じき二十七日御年三十八にてつひに隠れさせ給ひぬ
  2. `御心の猛さ理の強ささしもゆゆしうおはせしかどもまめやかに事の急にもなりぬれば御命を惜しませ給ひけり
  3. `まことに惜しかるべし四十にだに満たせ給はで大殿に先立たせ給ふこそ悲しけれ
  4. `必ず父を先立つべしといふ事はなけれども生死の掟に従ふ習ひ万徳円満の世尊十地究竟の大士達も力及ばせ給はぬ次第なり
  5. `慈悲具足の山王利物の方便にてましませば御咎めなかるべしとも覚えず